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お試し期間

お試し期間

「とりあえずはお試しってことで」


 そう言った沢村はこれから試合をするスポーツ選手のように片手を差し出した。辺りはすっかり暗くなっていて、真っ白できれいに並んだ沢村の歯もさすがに光りはしなかったけれど。
 促されるままに握手を交わし、俺はよく分からないうちに背中をポンと押されて、自分の住むワンルームマンションに向かって一歩踏み出す。

「え?」

 展開についていけず、やや前傾になった姿勢を無理矢理戻して振り向いた。
「何がお試し?」
 きっと俺はこの瞬間、世界で一番間抜けな顔をしていたに違いない。けれど視界に入った沢村は、快晴の空のような爽やかな笑顔を見せた。

「そりゃあもちろん、君と僕とのお付き合いだよ」

 ジジジ、と頭上の外灯が音を立てる。群がる虫達の羽音も混ざる。静けさの中に、同じワンルームのどこかから流れてくるハードロックのベース音が響く。あぁ、聞き覚えのあるこれは俺の隣の部屋に間違いない。
 そしてたっぷり5秒数えて、俺はワンルームの建物に向き直った。なんかおかしい。この世界はどこかおかしくないか。

「都倉」
 沢村の声が背中にぶつかる。決して大きな音ではないのに、ハードロックのベース音よりも威力があった。
「また明日、ね」


 また明日。バイト先に行けばあいつはいる。



 遠ざかる足音を聞きながら、俺はうまく呼吸ができなくなっていた。どうやったら、酸素を体に取り込めたんだっけ。けれど答えてくれる誰かはいなかった。

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