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ジワジワと、暑い夏でした。
太陽は高く、ジワジワと、蝉が哭いていました。
終戦の足音は、ジワジワと、迫っておりました。
敗戦の影が、ジワジワと、濃くなってまいりますのを、懸命に見ぬようにしながら、誰も彼もが、足早にいきておりました。
ジワジワと、暑い夏でした。

故郷を去る、最後の日でした。
私は兄の七つ釦を着て、姿見の前に立ち、襟元をちょいと指先でなおす、あの、兄のしぐさを真似てみました。
兄が生きていたころ、私はまだ小さく、父はおりませんでしたから、兄の全てが大きく、素晴らしいものに思えたのですが、いざ、自分でそのようにしてみますと、なんとも言い難く、滑稽なように思え、私は、幼い頃の憧れを、そそくさとすぐに脱いでしまい、それを衣装箪笥にしまいこんで、それきり、二度と出すことはありませんでした。
わずかな荷物だけを纏め、玄関に立つ私に、母は、「立派に死んできなさい」と、涙ながらに言うのでした。
生きて帰れと言えない時代でした。
無事を祈ると言えない時代でした。
そして、まさに、私は、死ぬためにゆくのでした。

ジワジワと、汗の滲む、あの夏の終わり、私は、空をゆきました。
帰りの燃料を積まぬ飛行機でした。
敵機に突っ込み、もろともにゆくものに、そのようなものはいらぬのでした。
母に宛てた遺書を書き、この飛行機に乗った時から、私という人間は死んでおりました。
私は、もはや、人ではなく、兵器でした。
「死にたくない」とは思いませんでした。
思考の糸が、がんじがらめに絡まって、始まりも、終わりも、わからぬのでした。
気がつけば、私は、叫んでおりました。
「お母さん」とでも言いたかったのか、絡まった思考は絡まった音だけをひたすらに、喉から絞り出しておりました。
目の前で火の手があがり、瞬く間に、私は、その赤い舌に呑み込まれておりました。
身体中の皮膚が灼熱に焼かれ、私は、地獄へおちたのでした。

戦争は終わり、私は、生きておりました。
結婚し、子を成し、孫が生まれ、それでも、私は、生きておりました。
住み慣れた古い家の縁側に座り、ぼうっと空を眺めながら、孫たちに、あの頃の話をしておりますと、耳の奥にジワジワと、あの夏の音が聞こえるような気がしてまいります。
今年も、ジワジワと、暑い夏でした。

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