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邂逅

邂逅

  
 理由なんて特に無い。
 この場所だったことも、相手がこいつだったことも、特に意味なんて無いんだ。
「ひ、ひぃ……っ」
 通りから外れた狭い路地裏。倒れ込んだ男が、怯えた目で俺を見上げる。
 先に難癖を付けてきたのはこいつの方だった。肩が当たっただか足を踏まれただか知らねぇが、擦れ違い様に俺を引き止め怒鳴り付けてきた。
 髪をドレッドにし鼻にピアスを付けた、見るからに頭の悪そうな面。あぁ、そのピアス、殴ったら鼻の中に刺さるのかな、強めに引っ張ったら鼻から引き千切れるのかな――そう思うと少しだけ楽しい気分になった。
 それが顔に出たらしい。男は俺の胸倉を掴み凄んできた。汚ぇ唾が飛んできて不愉快だった。
 場所を変えるぞと言われたので、近くの路地裏に移動した。ビルとビルの細い隙間。昼間も薄暗いそこは、夜になるともっと暗くなる。人目を遠ざけるには丁度いい。
 振り被ってきた男の所作は、なんともまぁ隙だらけでみっともなかった。こちらを舐め切り、自分の方が強いと思い込んだ、勢いしか無い無駄の多い動き。そいつの拳が俺に到達する前に、俺はその面に一発お見舞いしてやった。
 鼻の潰れる、ごきりという音と感触。噴き出た鼻血が拳を汚す。鉄臭い匂いが気分を昂揚させる。
 下卑た笑みを浮かべていた顔が、一瞬にして恐怖を湛えた。馬鹿そうな顔が鼻血で汚れて余計に汚い。お似合いだなぁ、と俺は喉を鳴らした。
 怯んで更に隙ができたところを狙い、今度は腹を殴り付ける。ぐえっ、蛙が鳴くような声。男は体勢を崩して尻餅を突いた。
「立てよ、ほら」
 男を見下ろし手招きする。
 人の急所は、身体の中心線上に集まっているという。鼻も鳩尾も、その線の上にある箇所のひとつだ。まだまだ殴っていないところはたくさんある。
「ほら」
「ひ……っ」
 怯えた目。喧嘩を売る相手を間違えたことに今更気付いたってもう遅い。
 おそらくこいつは、自分より弱そうな奴だったら誰でも良かったんだ。そして俺も、殴れるのなら誰でも良かった。
「来いってば」
 わざと靴音を立てて歩み寄ると、男はまた短く悲鳴を上げた。さっきまでの威勢は何処へやら、なんとも情けない姿だ。
 と、その時。
 キィ、と何か音がした。男のすぐ後方にある建物のドアが開いたのだ。男は咄嗟に振り返り、俺もそちらに目を向ける。
「君たち、何して――…、っわ!」
 顔を見せたのは、バーテン姿の男だった。歳の頃は俺よりも十歳ほど上といったところか。
 俺の目がバーテンダーにいった隙を突き、へたり込んでいた男は逃げ出した。ぶつかりそうになったバーテンダーが慌てて身を引く。俺は慌ててそいつを追い掛けようとした。
「おい待て――」
「待って」
 けれど、不意に伸びたバーテンダーの腕が、俺の行く手を阻止する。
「何だよあんた、邪魔すんな」
「怪我してる」
「は?」
 大きな手が俺の右手首を掴む。反射的に振り解こうとしたが、何故だかどうしても離れなかった。
「拳のところ。ちょっと待っててね」
 手に付いた男の鼻血を怪我と間違われたのかと思ったが、改めて目を遣れば、確かに関節の辺りが少し擦り切れているようだった。鼻を殴った時に、ピアスで少し引っ掛けたのかもしれない。
 バーテンダーは俺の手首を捕まえたまま、もう片方の手で近くの棚から救急箱を持ってきた。中から消毒液と絆創膏を取り出し、手早く俺の手に処置を施す。
「大した処置はできなくてごめんね」
「何のつもりだ、あんた」
 微笑み掛けてくるその顔を、俺は怪訝な目で睨み返した。
 いくら人目に付きにくい路地裏とは言え、誰かに見られる可能性はゼロじゃない。こいつのような闖入者が現われる可能性も予想はしていたが、こんな展開は予想外だ。
 目の前の男の心積もりが理解できず、俺は威嚇の目を向ける。
「恩でも着せようってのか、鬱陶しいな」
 何よりも、その偽善者的な笑みが気に食わない。
「そんなつもりは無いよ。ただ俺は、目の前に怪我人が居たから手当しただけだ」
「はっ、それなら、俺よりも重傷の奴が居ただろ」
「だって彼はもう何処かへ行ってしまったから。目の前に居ない相手よりも、今ここに居る君の方が大事だ」
 歯の浮くような科白を言いながら、男の手が絆創膏を貼った箇所を撫でる。
 思わず手を引こうとしたが、やはり引き剥がすことができない。決して力を込めているようには見えないというのに、引こうとする俺よりも強い力で繋ぎ止められている。
「下手に人や物を殴ると、こうやって自分の手が傷付くよ。あんまり安易に拳を揮わない方がいい」
「喧嘩すんなとは言わねぇのな」
「ここら一帯は呑み屋街だからね。残念ながら、酔っ払いの喧嘩は毎晩のことなんだ」
 酔っ払いなんかと一緒にすんな、と言い返そうとした時だった。
 ふと背後に何かの気配を感じた。
 ハッと振り返った先に見たのは、先程逃げていった男の姿。何処かで拾ってきたのか、その手には鉄パイプのようなものが握られていた。
 興奮した双眸がぎらりと光った直後、鉄パイプが振り上げられ、俺を目掛けて空を薙いだ。
 咄嗟に身を引こうとするよりも早く、強い力が俺の手を引く。
「……え……」
 刹那、俺の視界を覆ったのは広い背中。続いて聞こえてきたのは、肉を打つ鈍い音と、水気を帯びた呻き声。
 襲い掛かってきた相手をバーテンダーが殴り飛ばしたのだと理解するのには、数拍の時間を要した。
「言っただろう?」
 未だに俺の手を離さないまま、バーテンダーが笑う。
「下手に殴ると怪我をするって」
 それはつまり、裏を返せば、上手く殴れば痛手を負わずに済むということ。
 俺は言葉を失ったまま、地面に転がる男の姿と、涼しげな笑みを交互に見比べた。
(――はは、面白ぇ)
 胸の奥が騒めく。
「なぁ、ここ、あんたの店か」
 別にこの場所に来たことに意味は無い。売られた喧嘩を買って、相手が指定してきたのがこの路地裏だっただけのこと。
「うん、ここは裏口だけどね。もしお客さんとして来てくれるなら、反対側にある入口からお願いね」
 けれど、この男に出会えたのは、なかなかの収穫だったかもしれない。
 弱い相手を殴ったって、そう面白くはない。強い相手を負かすからこそ興奮するのだ。
「へぇ、じゃあ、今度来てみるわ」
「ありがとう、歓迎するよ」
 あれほど解けなかった手が、するりと外れる。
 少しの痕も残っていない手首を見て、ますます興味が引かれた。
 零れそうになる笑みを誤魔化すように、俺は踵を返してその場を後にする。
(こいつは暫く楽しめそうだな)
 こんなにも胸が昂るのは、随分久々のことだった。

 

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